紀北町商工会
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きほくの文化財

大島暖地性植物群落

大島は江ノ浦大橋から南南東約5キロメートルの海上にある無人島で、高さ約90メートル。島の最高地点に燈台がある。
全島ほとんどスダジイ林でおおわれ、森林植生はほぼ原始に近い状態が保存されている。
この大島全体の植生は学術上貴重なものであるが、特に植物地理学上注目されるものとして、オオタニワタリ、ハマユウ、メジロホウズキ、ハチジョウススキ、バクチノキ、オガタマノキ、シマモクセイ等がある。

鈴島暖地性植物群落

鈴島は三浦の海岸より約2キロメートルの海上にある無人島で、この島全体が魚付林として保護されてきたが、その南半分約4ヘクタールが伐採されたので、天然林は北半分に残るのみである。
天然林の主要構成樹種はクスノキで、それにタブノキ、ヤマモモ、スダジイ等の高木が混生している。
注目すべきものとして海跡湖の南側に生えるハマナツメがある。
鈴島の森林は紀伊半島海岸小島の典型的植生を示すもので、特にその天然林の保存を目的として保護されている。

西町聖観音像

西町観音堂の本尊である聖観音像は座高60センチ、台座光背をいれても130センチというやや小ぶりながら、黄金色の乾漆をほどこした精致な木像である。
平安末期から鎌倉時代にかけての作品であり、美術品としても優れたものであるが、ただ江戸時代に粗悪な修理をしたのが惜しまれるという鑑定記録が同庵に残されている。

道瀬五輪塔群

道瀬の阿弥陀如来堂の裏手に宝筐印塔が四基、五輪塔が三基ひっそりと並んでいる。七基の古石塔に文字は一字もないが、かたわらに立つ古石碑に「寛政9年(1797年)堀内氏」とある。
堀内氏は戦国末期に新宮を中心に勢力を伸長した土豪で、北山を含め新宮市と今の南北牟婁一帯を領有する6万石の大名になった一族である。
関ヶ原の戦で豊臣の西軍に組みしたため、領地没収、一族四散となったが道瀬浦に住みついた堀内氏もその流れをくむもので、その由緒により江戸時代を通じて代々地主として遇され、浦庄屋を勤めてきたことが古文書により明らかにされている。
この古石塔群は道瀬浦の歴史を物語る文化遺産である。

五輪供養塔

城腰(しろのこし)と親しまれている長島の裏山は南北朝時代と戦国時代の二度にわたり、紀北地方に勢力を張った北畠氏の臣加藤氏の山城の設けられたところである。
天主台にあたる山頂より東へ約200メートル下った所に「五輪さん」と呼ばれている苔むした宝筐印塔がある。これは戦国後期に加藤家の五代目として生まれ、初代甚左衛門の業をついで加藤家を再興しながらも新宮の堀内氏に敗れ、ついに自刃に至った甚五郎の墓であると伝えられている。
なお、この墓は元加藤氏の居館があった長楽寺地内に建てられていたものを、元禄年間に現在の地に移したものである。
長楽寺には由緒書、絵図など古文書が伝えられている。

津波流死者供養碑

仏光寺境内には津波供養碑は二基あるが一基は宝永4年(1707年)一基は嘉永7年(1854年)の大津波による流死者を供養するために建てられたものである。
碑文によれば一基は宝永7年に建てられているが、長い間の風雪を経た碑文字は意外なほど原型をとどめ、500余人が流死したこと、今後大地震の時はその心得をして山上へ逃げ登るべきことなど、簡にして要を得た名文で記されている。
当時の長島浦の人口は「続紀伊風土記」によると2,491人となっていることからみても500余人の流死者というのはいかに被害がすさまじいものであったかが想像され、海とともに生きてきた郷土の人々の不屈の歴史を物語るものである。

泉福寺梵鐘

中桐の泉福寺境内の鐘楼があり、そこには享保13年(1728年)の銘のある梵鐘がある。
五世宇州和尚が村中に呼びかけ、信徒より寄金を集め伊勢津の工人藤原種茂の手により鋳造されたものである。
この梵鐘は長い間の風雪に耐えてきた年月の重みと、銘文の格調の高さ、風格ある造形美等とあいまって、紀北地方でも五指に数えるべき名鐘であるといえよう。

奥村墳墓

鎌倉幕府の滅亡に際し、北条市の臣奥村氏が赤羽谷に落ちのび、前山的場あたりに拠を構え、当主は新之丞を名乗り紀北一帯に勢力をはっていた。
天正3年(1575年)加藤甚五郎が北畠家の代官として長島城に入ると、ひとまずはその騎下に服したが翌天正4年加藤氏が新宮の堀内氏と戦うや変心、堀内氏と共に加藤氏を攻め、甚五郎を自刃せしめ一時は長島城を手にした。しかし、北畠勢が伊勢よりツヅラト峠を越えて押し寄せ、奥村勢は打ちやぶられたと伝えられる。
前山の苔むした宝筐印塔は奥村新之丞の墳墓である。

不動明王像

大原の大昌寺境内不動堂に安置されている不動尊像は藤原時代後期の作と認定されている。
身丈82.5センチ、魔剣を右手に、童顔ながら威厳のある形相で実に堂々たるものである。
古来から広く陸上、海上をとわず行路安全の信仰を集めてきた仏像である。

地蔵院庚申碑

お堂の中にあるこの見事な庚申碑は元禄8年(1695年)東嘉衛門の建立とある。
年代の古さといい、大きさや三猿の構図といい、紀北地方にも数多い庚申碑中第一級のものである。
この庚申堂は庶民の守り神として現在も相変わらず地区の人々の信仰を集めている。

長楽寺古絵図

長楽寺は、長島城主であった加藤家の菩提寺で、多くの古文書を相伝している。
この絵図は安永2年(1774年)長楽寺五世住職服部性慶師によって書かれたもので、半畳ほどの和紙に墨一色で城腰山を中心に二百余年前の長島浦の様子が詳細な解説入りで書かれている貴重な考証資料である。

格子絵天井

大原の大昌寺境内にある不動堂の天井は、江戸時代後期に奉納されたという極彩色の絵馬がはめこまれた格天井となっている。
絵馬は百人一首の他に四十三首の古今名歌が書かれ、その一枚一枚に作者像が極彩色で描かれているという見事なもので、名だたる歴史上の歌人の歌と画像が、山間の一小寺の御堂の天井に極彩色で残っているのは、他に例のない貴重なものである。

円通閣聖観音像

中桐の円通閣本尊聖観音像は、わが町でも最も古い仏像の一つである。鎌倉時代の作とも伝えられているが、また、桃山期から江戸初期の間のものと鑑定されてもいる。
丈六の座像で今なお金箔燦然としている立派な仏像である。
また、本堂の入口にかけられている鰐口は特殊な紋様を持つ逸品である。銘文に「寛文乙巳五歳(1665年)十二月吉日……」とある。

当郷開基の碑

下河内の河合橋近くの丘に、この部落開拓の指導者中村久之丞の頌徳碑が建てられていて、碑の側面には彼の業績が詳細に記されている。
天明8年(1788年)赤羽川の大洪水により彼をふくめた十三戸の農家の田畑が川原と化し、一家離散の窮境に陥るに至った。
久之丞は下河内原野の開拓を思いたち、和歌山藩から銀二貫目を資金として貸し与えられて開拓をはじめた。その結果、文政5年(1822年)には高六十八石の田地を切り拓き、かつ豊かな山林を所有する裕福な部落となった。
久之丞は嘉永3年83歳を以って歿したが、碑はその徳を追慕する人々によって明治17年に建てられたものである。

横城須恵器

昭和5年江ノ浦の横城山頂より採土中、弥生式土器片、須恵器片、剣先、銅環等が発掘されたが、古墳そのものは採土作業のため荒廃してしまった。
この須恵器は接合復元されたもので、かかる雄大にしてほぼ完全な出土品は珍しいことである。高さ約50センチ、上部の皿直径30センチ、須恵器独特の青灰色をしており、精巧な線と円の模様が入っている。
その形態から高杯または器台と呼ばれる祭器であると推察される。

豊浦神社社叢

長島神社社叢

 

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